自己肯定感と文化的背景

最近は「自己肯定感」という言葉も一般的になってきましたが、

昔に比べると、

この「自己肯定感」が低い人が増えたことが

要因としてあるのではないかと思います。

「自己肯定感」というのは、

端的に言えば

「ありのままの自分を受け入れること」と言えると思いますが、

これができていない人が、非常に多い。

日本社会では、

“個性を大事に”という価値観も定着してきましたが、

それでもやはり、

画一的なものが良い、とされる価値観は根強いです。

これが、人間の欲求として

社会的欲求によるものなのか、

農耕民族としての帰属意識によるものなのか、

または他の要因によるものなのか分かりませんが、

個人的には、核家族化による影響があると考えています。

たとえば、

「毒親」などという言葉も

聞かれるようになりましたが、

親からの声がけは、

子供の成長に大きな影響を及ぼします。

もちろん、親も完璧な人間ではないので、

親だけを責めるわけではありません。

ただ、そのような親以外に、

子供を丸ごと受け入れてくれるような人が、

現代では存在しにくいことが、

問題としてあると思っています。

たとえば、戦前であれば、

二世帯・三世帯で暮らす家族や、

家族でなくても、

各村々に、子供の相手をしてくれるような老人や、

お寺の住職などの人格者と言われるような人がいたのではないでしょうか。

また、もっと時代を遡れば、

寺子屋のように、何年も長い時間をかけて、

子供の成長を見守り、

その子供の人間性をまるごと受け入れてくれる場所があった…。

そういう意味で、

子供は、家族以外にも、

自分を受け入れてくれる人がいたと思うのです。

しかし今はどうでしょうか。

核家族化が進み、

祖父母は遠方に住み、

学校の先生は画一的に生徒に接するので精一杯な場合も少なくありません。

日本では、

道徳などの精神的な部分も、

小学校の担任は任せられていますが、

やはり教師一人に委ねられる部分は、

かなり荷が大きいと思います。

一方、アメリカなどでは、

自分自身への自信の付け方を

かなり早期から学びます。

ディベートなどを通じて、

自分の考え方を周囲に主張し、

それが周囲と違っていることを、

あえて誇張して尊重される文化があります。

それが日本では、

相変わらず画一的な回答を求められ、

そこから外れると減点される評価方法です。

このような教育の中で、

日本人は、

他と異なることを受け入れることができるはずがありません。

たった一つの、同じ評価基準の中で、

他よりも優位に立つことを求められ、

それが叶わなかった時は、

その劣等感が刷り込まれていきます。

学校以外で評価される機会は、

ほとんどなく、

忙しい共働きの家庭では、

ゆっくりと多角的に子供を見る時間がないため、

学校の評価に準じた声掛けがなされることになります。

そして大人になった、かつての子供たちは、

自分で自分自身を評価する術を知らず、

子供時代と同じように、

職場でも画一的な評価基準でのみ競争を強いられ、

他よりも低い点があると、

そこにずっと不安を感じながら人生を送ることになるのです。

もうこれは、

呪いといって良いんじゃないかと思えてきます。

他の大人に消してもらうことのできなかった呪い。

自分で解く方法も教えてもらえなかった呪い。

この呪いに呪われた、元子供たちが、

とても多いように思うのです。

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